石川県金沢市の印刷会社 株式会社谷印刷
サイトマップ お問い合わせ
ホーム 会社案内 商品案内 自費出版 情報BOX 環境対策 リンク
ホーム情報BOX社員が作るページ2011年9月の記事
 
 
社員が作るページ

2011年9月の記事


@浅井長政

ペンネーム:S

「義を優先した男」

信長は天下統一への大きな足がかりとなる美濃攻略に際し、甲斐の武田、越後の上杉、三河の徳川、そして近江の浅井と同盟を組んで後顧の憂いをなくそうとした。
信長は浅井との同盟の条件として長政と自身の妹、お市の婚儀を申し入れた。長政は同盟者である浅倉を攻めないでほしいと、どうしても攻める時は一報するという条件で信長と同盟した。

長政とお市はいたって夫婦仲がよく、二男、三女ともうけて幸せな家庭を築いていった。
ところが平穏を乱す者が現れた、足利義昭である。
義昭は将軍職につく前に身を寄せていた朝倉義景に協力を要請したため、義昭は反信長色をあらわにした。
怒った信長は大軍を率いて朝倉討伐のため越前に侵入し、金ヶ崎城を攻めた。驚いたのは長政である。朝倉を取るか、義兄の信長を取るかを迫られた長政は朝倉を取った。
夫と兄の板ばさみになったお市が挟撃されることを信長に知らせるために両端をひもでくくった小豆の袋を届けさせた、長政が裏切ったというサインである。

朝倉と浅井軍に挟まれて身動きできなくなった信長は、木下藤吉郎(のちの秀吉)に殿軍をつとめさせて必死の思いで撤退した。

「引き継がれた天才・信長の血」

京都に逃げ帰った信長は、すぐさま軍勢を立て直して、徳川家康との連合軍をもって浅井・朝倉討伐に取りかかった。
これが姉川の合戦である。
決死の覚悟をした浅井軍は勇猛に戦ったが、徳川軍に崩された朝倉軍が持ちこたえることができず共に敗退した。
大打撃を受けた浅井軍はからくも小谷城に戻って信長に対抗し続けた。
姉川の合戦から三年目の天正元年(1575年)信長は引き続き越前に朝倉を攻めて自滅させてから小谷城に猛攻撃を開始した。
信長は何度も降伏を勧告したが、長政は応じなかった。

そして最期の時が迫ったとき、長政はお市と子供たちを城から逃がして自刃した。
総攻撃が始まる直前にお市とともに出た長政の娘たちは、この後の歴史の流れの中で重要な役割を果たすことになる。

長女の茶々は、豊臣秀吉の側室・淀君となり、二女のはつは京極高次の夫人となり、三女のおごうは江戸幕府二代目将軍・徳川秀忠夫人となった。
見方によっては、長政は娘たちによって豊臣、徳川と続く天下の覇者たちに影響を与え続けた。

それは彼女たちが信長の血を引いていたからにちがいない。

 
 
   
   
 
 
 
免責事項 個人情報保護方針 Copyright(C) Taniinstasu Corporation. All Right Reserved