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平成25年1月の記事


@大谷吉継の真義

ペンネーム:S

関ヶ原の戦いにおいて、西軍の最重要人物である石田三成の親友が、その友情に殉じて命を落とした。彼の名は大谷吉継。
三成とともに豊臣秀吉に仕えた名将である。

当初は、小姓として秀吉に仕えていた吉継だったが、やがて頭角を現していく。秀吉が柴田勝家を倒した賤ヶ岳の戦いでは、軍功を挙げたものの「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる特に活躍したとされる7人に入れずに落胆したといわれている。
しかし吉継は武芸よりもむしろその才知を重視され、いわゆる吏僚派として秀吉を支えていくようになる。

そんな彼に、秀吉は「百万の兵を与えて自由に指揮させてみたいものだ」といった言葉を残している。吉継に対する評価の高さが窺える。そんな秀吉に仕える中で、吉継は三成と組んで様々な仕事にあたり、友情を深めていった。

友情を貫いた吉継
関ヶ原の戦いに先駆けた会津征伐の折、吉継はこれに従うことになっていた。しかし、遠征の準備を整えてから三成の居城、近江佐和山城まで赴いたところで、徳川家康を討伐するための挙兵計画を打ち明けられたのである。
家康を敵に回すのは危険であると良く分かっていた吉継は、説得にあたった。
「家康公は今や250万石を有する大大名である、豊臣恩顧の諸大名だって味方についてくれるとは限らない。私一人がお主に味方したところで勝てると思うか」しかしその説得の言葉にも三成の決意は変わらず、「お主が味方してくれるのであれば、勝てる見込みはある」と吉継に協力を求めてきた。
吉継は買いかぶりすぎだと一旦ははねのけたものの、陣所に戻った彼の心は揺らいだ。今こそ長年の友情に報いる時ではないかと。
悩んだ末に吉継は決意し、自ら佐和山城へ赴くと、賛同の異を告げた。

佐和山城の打合せが終わったのち、吉継は自領である敦賀に戻ると兵を挙げ西軍の中で最も早く関ヶ原に着陣した。

しかし吉継には以前から警戒している人物がいた、西軍の小早川秀秋である。西軍に属してはいるものの、実は秀秋は家康からの勧誘を受けていた。吉継は彼の動きを注視するため、秀秋が陣取った松尾山の北方に陣取ることにした。
吉継のこの予想は的中することになる、合戦の最中に秀秋が東軍に寝返り大谷隊を側背から襲ってきたのである。
あらかじめ秀秋の動きを読んでいたこともあって、吉継は小早川隊を松尾山に押し返すことに成功した。しかしその後の、小早川隊の抑えとして配置していた脇坂安治らによる裏切りまでは吉継も予想していなかった。

完全に不意を突かれる形となった大谷隊は、これに乗じた小早川隊の反撃を受け徐々に崩れ始める。次々と兵が倒されていくのを見て、吉継は覚悟を決めた。
鎧を脱いで家臣に介錯を命じると「わしの首を敵に見つからぬよう、人目のつかない場所に埋めてくれ」と願いを託す。

裏切りが当たり前の戦国の世で最後まで友情を貫いて果てた吉継の姿は、まさに「高潔」と呼ばれるにふさわしいと私は思う。


 
 
   
   
 
 
 
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